まず初めに私の仕事の経験と、このゼミを選んだ動機について話します。
私は、現在行政機関である奈良県の保健所に勤務して14年目になります。
それ以前は、3年間病院で看護婦として勤務し、内科、外科、手術室そして、小児科などを経験しました。
臨床の現場では、闘病している患者の看護を経験し、そこから病院という施設内だけでは解決できない患者の抱える問題を感じました。
特にその病院では、今ほど世間で“介護保険制度”や“訪問看護”がもてはやされていない時代に、先駆けて地域の訪問看護を行っていました。
日中家族が不在で、お菓子の缶のふたにおにぎりが部屋のほこりといっしょになって置かれていた寝たきりの老人の生活や、大腸癌で人工肛門を装着して自宅に帰り、穏やかに過ごした日々の後、再発で癌の脊髄転移の痛みをこらえ、モルヒネ薬の継続投与をしながら死を迎えた主婦など、患者の地域での“生活”や“死”というものに直面しました。
そこから、病院だけではなく、地域で生活している人々に何かできることはないかと考え、現在の保健所い勤務しました。
そこでは、母子保健に始まり生活習慣病、結核、精神、難病、痴呆、アルツハイマー病等の患者及び家族の相談や、健康にやせるための教室、骨粗鬆症予防の教室、子育て教室や、各種検診を経験しました。
特に、人工呼吸器を装着した難病患者と家族の支援を地域でケアコーディネイトした経験は、いろいろな人との出会いがあり、患者や多くの医療関係者やそれ以外のヘルパー、ボランティア、議員や学校の先生等多くの人々から学ぶことがたくさんありました。
そしてその後、1年間厚生省の研修機関である国立公衆衛生院というところでは、大学経験のない保健婦としての私にとって、初めて正式に研究経験や研究のもつ意味を知った貴重な機会となりました。
そこでは、「神経系難病疾患のQuality of life の評価尺度開発」に携わることができました。
この研究は、私たち行政機関やその他の人々の患者に対する支援が、本当に患者の生きる価値や志気を高め病気を受容できるための支援になり得ているか否かを少しでも客観的に評価しようとするものでした。
それから2年間は、専門職の現場を離れ、行政職として難病の子供の医療費の担当となり、県の予算を立てたり、難病の研修の企画などに携わりました。技術職が断然少ない事務職の職場では、事務能力が問われ、随分苦労しました。
数量的データを基に、各事業を予算化していく過程を経験することができ、法律に基づいて多くの事業が組み立てられていることや、国や県の予算の動きや、補助金の流れも学びました。
これらの業務の中で、コンピュータの操作は不可欠であり、この数年間に業務処理の状況は、かなり変革を求められていました。
さらに、昨年4月から保健所勤務に戻り、難病支援のためのボランティア組織や難病患者家族の自助グループを育成したり、難病の方々の医療費助成事務を担当したり、難病の在宅ケアを推進するための医療機関や患者家族に対する調査なども実施しています。
これは私の仕事の時の写真です。こんな風なシンポジウムも企画します。
これらの仕事にコンピュータの操作は必須なのです。
このような経験をきっかけに、今のこの同志社大学に入学し、またこの中尾先生のゼミに入ろうと思いました。
この同志社大学でやりたいことは、保健・福祉・医療という仕事の分野を通じてだけではなく、もっと広い視野を持って自分の生活や自分の仕事を見つめ、日本で保健や福祉や医療の質を向上させ、国民の精神的及び身体的な満足を充実させることができる社会を築いていけるような仕事に結びつけることです。
そのためには、諸外国のこれらの状況や経済の発展や国民性等の特色を理解するとともに、日本と諸外国とを比較し、今後の日本の保健・福祉・医療の充実につなげたいと考えています。
最後に仕事意外では、季節折々の料理を作ったり、お弁当を持ってハイキングに出かけたり、マラソンや山登り、油絵等を描いたりして、大切な肉親や友人や恩師などと時間を共有することが大好きです。
嬉しい時も、悲しい時も何でも話せる友人との関係を特に大切にしています。
とにかく人と交わって、自分はもちろんのこと、自分と関わった人達と共に成長したいと思います。
大学での4年間(もうすぐ2年が過ぎようとしていますが)はとても大変だけれど、時間を大切に、健康に留意して過ごしたいと思います。
これからもみなさんよろしくお願いします。信野でした!